本日、Webマガジン「MIZUTAMA」第2号にてカメラマン・映像作家の能勢広氏の対談インタビュー(聞き手:「MIZUTAMA」代表:田下啓子)を公開いたしました。
能勢広 その映画世界(1) | note
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映像カメラマンの鈴木喜代治氏が原爆投下後の広島に入り、映像とメモにとらえていた当時の記録を、鈴木氏の孫である能勢氏が映像作品化した「広島原爆・魂の撮影メモ」。
原爆が落ちた後の広島の姿を鮮明に記録した同作品は、4月に開催された「さがみ人間未来フィルムフェスティバル」、8月に能勢氏が開催した『広島原爆・魂の撮影メモ』展「カメラマン・スピリッツ三代』展で公開され、反響を呼んでいます。
今回、「MIZUTAMA」では、能勢氏に対談インタビューを行い、同作に対する思い、自身が主催する映画祭「さがみ人間未来フィルムフェスティバル」を立ち上げたきっかけ、映像カメラマンとしての生き方などを語っていただきました。
「MIZUTAMA」で全4回にわたってお届けする予定の能勢氏のインタビューですが、今回、現在noteのマガジンでも無料公開中の第1回目をこの場でも公開いたします。
能勢広 その映画世界(1)~聞き手 田下啓子
自身の祖父であるカメラマン・鈴木喜代治氏が原爆投下後の広島に入り、当時の状況を記録したフィルム映像とメモをもとに短編記録映画「広島原爆・魂の撮影メモ」を作り上げた映像カメラマンの能勢広氏。
同作へのこだわり、自身が主催するドキュメンタリー映画祭「さがみ人間未来フィルムフェスティバル」への思いなど、その映像世界を全4回で語ってもらった。
ウェブマガジン「MIZUTAMA」代表・田下啓子(左)と能勢広氏
祖父・鈴木喜代治が残した原爆投下後の広島の映像とメモ
田下:今回、能勢さんが制作された「広島原爆・魂の撮影メモ」のもとになっているのは、能勢さんのお祖父さんの鈴木喜代治さんが撮った広島原爆投下一か月後の記録映像とメモですね。
能勢:そうです。撮影メモは鈴木喜代治の私物として、ずっと自分の手元にあったんですが、フィルムは当時米国の進駐軍に没収されて、それが文部省の返還要求に応えて1967年に戻ってきました。
田下:記録映画と撮影メモを合わせてみたら、ちゃんとメモに沿って記録が残っていたんですね。
能勢:残っていました。
田下:当時、広島に原爆が落ちて一か月後というのは、まだ放射能がすごい量のときですよね。
能勢:そうですね。ただ、調べていくと、当時枕崎台風で広島市内でものすごく水嵩が増えて水浸しになって、どうもその水で放射能の灰が流れたらしいんですよね。
田下:お祖父さんが広島に入られて、手帳に克明にコンテのようにメモをされており、それを能勢さんが今回映画になさったわけですが、作品にしようと思った動機はどんなものだったのですか?
能勢:僕の家の屋根裏に祖父の記録ノートを保管してあるタンスがありまして、そこを他の仕事で何か使える資料がないかと思って探していたら、あのノートが出てきたんです。
ノートについては一度20年くらい前に中国放送で取り扱ってもらって世の中に出ているので、今回初めて出てきたって代物ではないんですが、僕がこれを持っていても何の役にも立たず宝の持ちぐされで、やっぱり人に見てもらわなきゃと思った。それで、写真ですべて複写してYouTubeか何かで不特定多数の人が閲覧できるようにしたらいいんじゃないかと思って、一枚一枚写真を撮っていったのが始まりです。
ただ、一つ一つを写真撮っていっても、ただ資料として存在するだけなので、自分は映画の撮影や制作もしているので、むしろこれは一つの映像作品にしたほうがいいのかなという思いが出てきたんですね。それで、撮影するだけじゃなくて、ノートの中にどういうことが書いているかを一つ一つ解読し始めた。ものすごく達筆というかクセ字というか読みにくい文字だったんですが(笑)。
そして、「こういうところに来て、こういう撮影をしていたんだ」と解読していくと「ちょっとその場所に行ってみようかな」という気になってくるわけです。実は祖父が広島に行ったのはちょうど45歳のときで、私がこのノートを引っ張り出したのも45歳の夏。今の自分と同い年のときにこういうことをしているのであれば、何かのめぐりあわせもあるのだろうと思って広島を訪れ、行くならばカメラを廻そうと現地で動画と写真を撮りました。
そうやっていって最初にできたのは、15分のノートだけの作品です。ただ、それを人に見せても「なんか物足りない」という意見がほとんどでした。記録としては貴重だけれど、映画作品としてはどうかというところで疑問を投げかけられたんです。
そうこうしているときに、祖父が撮影した映像を持っている日映映像の山内さんから「このノートと作品があるなら、うちの映像を貸すよ」という話が来ました。
「貸すよ」といわれたものの、映像を借りる料金の相場を考えると、それなりの金額になるんじゃないかと思いつつ、とりあえずお話だけは聞こうと出かけて行ったら、「無償でお貸ししますので、作品を作ってください」とお借りすることができたんです。
それで、祖父が撮ったすべを合わせて約15分の映像とメモとつなげていったのが29分の「広島原爆・魂の撮影メモ」です。
「メモの書いていないところにあるものに心を打たれた」
田下:私は能勢さんからメモを見せていただいたとき、メモの書かれていないところにあるものにすごく心打たれました。
たとえば、「説明できないものが次から次へと自分を追い越していく」という言葉。
ぺらぺらと説明してしまえる薄っぺらいものじゃない。人間は、本当にすごいことの前に立ったら泣くこともできず、呆然とそれを見ているしかないと、喜代治さんがご覧になっていたんじゃないかとすぐ思いましたね。
「原爆は悲惨なものだ」と言葉で言うのは簡単だし、それで「そうだそうだ」って運動になってそれでいいのかもしれないけれど、そうじゃない、言葉にできないものを実は日本人みんなが深いところで背負っている。声高に騒いでいくんじゃなくて、深いところでつながって、それはどういう風に言葉にしたらいいか、映像にしたらいいかわからないものを、原爆を二つも落とされた日本人は背負っている。説明できないものが次から次に追い越していって、自分たちにはどうしようもない。ただ見ていて無念で、悲しみは下に落ちていく。わーっと泣き叫ぶこともできない、自分たちだけが体験したことのすごさがあの手帳に書いてあるなって。
それから、「病院に入って、一晩中子供たちのうめき声が聞こえる。そのうちに7人が亡くなった」って、さらっと書いてありますよね。もう、この言葉を読んだだけでも、胸が打たれてしまった。
これを能勢さんがどういう風に映画になさるんだろうなって思っていたんですよ。そしたら、出来上がってみた映画が素晴らしかったですね。
能勢さんはべたべたしたものを作らないだろうなとはわかっていたけど、映画の中に能勢さん自身が介入して、自我を振り回して自分の色で染めようとすることをまったくしなかった。これは、お祖父さん、お父さんから能勢さんに受け継がれた教示だったんですか?
能勢:そうですね。祖父も父も一貫して「見ている人がわかりやすいように撮影する」が第一優先としてあったらしいんですね。僕は映像の学校には行かず、父からしか教わっていないので、「こういう風に撮りたい」という思いはもちろんありますけれど、なるべく自分の感情を抑えながら撮っていくスタイルに自然になっていた感じですね。
田下:教示が空気のように能勢さんに伝搬されているのかもしれませんね。映像を見ていると、観客をすごく信頼しているというのがわかりましたね。たとえば、余計なナレーションや説明が入っていない。画面の下で内容を補佐するようにテロップが静かに流れて、音楽が流れているだけ。私が感じたのは、「みんなにわからせてやろう」「気づかせてやろう」じゃなくて、そのままをそのままで出して、作り手が余計な思想や自我を映しこまない。
能勢:料理みたいなものだと思いますね。そのままの素材の味を食べてほしいという感じで。
田下:でも、なかなかそうはいかないでしょう。サニフ(さがみ人間未来フィルムフェスティバル)でも、私が見た中ではそれができていたのは能勢さん一人だけだったから、すごいなと思って。
能勢:僕の場合はもともとそういう感じですけど、他の監督や製作者は、組織の中で「こういう風に作れ」と強制されるものがあったりするので、そういうところでそれに少し染まっていくふしがあるかもしれませんね。それがスタンダードになっていくと、素材をそのまま生かすというのが作れなくなる可能性はありますね。
田下:でも、見せていただいたお祖父さんの喜代治さんの顔にも、そういう余計なものはなかったですね。すっきりとしたすがすがしい、粘々したものがないお顔でした。
鈴木喜代治氏
戦争体験のある世代が、今の人たちの道しるべに
田下:「広島原爆・魂の撮影メモ」は、ご自身が主催した「さがみ人間未来フィルムフェスティバル」で上映、そして、今回、8月に都内で本作の上映とあわせて、能勢さんのご家族三代のカメラマンの足跡を追った展示会「広島原爆 魂の撮影メモ展―カメラマン・スピリッツ三代ー」が開催されましたね。
能勢:「広島原爆・魂の撮影メモ」ができてから、被爆者の方たちからすごく問い合わせがあったんですね。その方たちがいうには、今の被爆者の方は、75歳から80代が年齢層として多いけれど、当時、5歳から10歳以下くらいだったので、記憶があまりなく、この映画を観て「そうそう、こういう風景が広がっていた」「山並みがこうだった」とか、思いだすんだそうです。悲惨な記憶ではあるけれど、どこかで懐かしいという思いが記憶の中にあるんですね。
田下:広島の中は、映像の中ではがれきがあるのに、車が通ったり人が通ったりしていましたね。
能勢:何事もなかったように人が歩きましたね。あれを見ると人ってすごいなあと。
田下:私もそう思った。そこで1か月前にいっぱい人が死んだり、川に死体が流れていたりしたわけでしょう。それでも生きていく、自分たちの日常の取り戻すっていうかね。そういうことが、凡庸の中にぽっとやられていくことね。
能勢:同じようなことがあったら、今の人たちはああいうふうにいけるかどうかですね。当時の人たちはすごく生きてやるっていう気概っていうかね。
田下:戦争のあとだから、何もなかったから、生きなきゃしょうがないって感じだったかもしれませんね。
能勢:戦争体験のある世代の方たちは、それより前の70代60代の人に比べると全然背中はびしっとまっすぐ伸びているし、襟は正しているし、気骨、精神力が満ち溢れているっていうのは80代90代の人じゃないかなと思うんですね。生きる活力や気力が今の若い人たちとは全然違いますよね。そういう姿も見てもらえたらっていうのもありますね。
田下:喜代治さんの姿もね。
能勢:そうですね。喜代治も含めて当時のスタッフも、この記録を残して今後のために活かすんだ、日本を復興させるんだという思いもなんとなくどこかで感じますし。そういうところでは、今の人たちにも道しるべになるようなものかもしれないと思います。(続く)
【能勢広・プロフィール】
1969年(昭和44年)7月7日生まれ 神奈川県相模原市出身
現在、博物館などで上映する展示映像の撮影、各地のお祭りの記録映像撮影、企業のPRビデオ、ライブ撮影等を行っている傍ら、自身の企画として文化記録映画やドキュメンタリーの撮影と制作も行っている。
代表的な作品:
NHK ハイビジョン特集「アフリカナミビア 骸骨海岸」
NHK 地球不思議大自然「乾燥の大地 をジャッカルが行く」
NHKハイビジョン特集「世界里山紀行 ポーランドの湿地と生きる」
短編記録映画「ギフチョウと生きる郷」
ドキュメンタリー映画「流 ながれ」
「生命の誕生 絶滅危惧種日本メダカの発生」
「広島原爆 魂の撮影メモ 映画カメラマン鈴木喜代治の記した広島」
他 撮影担当作品 約150本程
本インタビューの続きは、noteの「MIZUTAMA第2号~特集・ドキュメンタリー映画の世界」で随時更新予定です!
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